吾輩はメモである(別館分室)

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【みんなで英語教育】第一回:私の英語学習歴


http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20110301/p1 の企画に乗っかって書いてみました。

振り返ってみるといろんな人や物との出会いから良い影響を受けたこと、そして節目節目での良いタイミングやチャンスのおかげで、英語とは良い相性を維持できているような気がする。

今の自分を作ったきっかけかもしれない、そんな記憶の断片をたどってみよう。

英語に触れた一番古い記憶は幼稚園に入った頃だっただろうか、親に買ってもらったアルファベットの本。それぞれの文字で始まる単語が数個ずつイラストとともに書かれている。結構気に入っていた本だと思う。いつまで持っていたかまでは記憶にないが、背の部分がガムテープで補強されているのを覚えているので、繰り返し何度も何度も読んでボロボロになったのだろう。

この本には強烈なイメージとして記憶に残っているエピソードがある。苗字は忘れてしまったが「あり」という名前の女の子が幼稚園にいた。そうか、あの子の名前を英語で言うと ant なのか。じゃあ自分の名前は英語で何というんだろう?

幼稚園児で固有名詞と普通名詞の区別が分かっていたりしたら逆に怖いが、こういう疑問を持ったことが今の自分に繋がっているのかもしれない。

幼稚園はキリスト教系の私立女学院高校・中学校の付属。この学校にはネイティブ教員もいて時々幼稚園にも遊びに来ていた。違った顔の人が違った音を発するのを不思議に思った。

幼稚園では卒園した小学生対象の英語教室が毎週土曜日の午後に開かれていた。もちろんお遊び程度だろうが英語学習はこの時がスタート。小学校1年の時、英語で25まで数えることができることを友達に自慢していたような気がする。

この英語教室には小学校4年生まで通ったが、小学校4年の時にはサッカー部に入ったため、土曜午後の練習と重なって次第に行かなくなったように思う。

小学生の頃から言葉の不思議さには敏感だったような気がする。方言に関心を持ったこともかなり大きく影響していると思う。母方の祖父母の話す方言が自分の言葉と違っていたことに興味を持った。聞こえてきた方言の音を真似するのも好きだった。これがリスニングや発音への志向にも繋がっているのかもしれない。

小5・小6は全く英語とかかわりがなかった。小学校を卒業する間際、NHK基礎英語のパンフレットが教室で配布され、中学生になったらこれを聴くといいよと言われた。素直な神谷少年は当時の担任の先生の話を信じてNHK基礎英語を毎日欠かさず聞くことになる。しかも発音練習は恥ずかしげもなく大声で真似していた。英語の音を綺麗に発音することに興味を持ったのは故田辺洋二先生の続基礎英語の影響が特に大きかったような気がする。

中1の1学期中間テストでいきなり100点をとった。まあこれはよくある話。でもその後も中学生の間は英語がよくできたと思う。

中1の夏休み、買ってもらったばかりのNHK基礎英語9月号のテキストの一番最後のLessonに書いてあった英文を叔父がスラスラ日本語に訳しているのを見てすごい!と思った。

中2の時に見かけた続基礎英語テキスト3月号のテーマ「時制の一致」という文法用語にとても魅力を感じたのを覚えている。

中学生の時の教科書はニュークラウン。英語もそうだが、表紙裏の世界のいろんな言語での挨拶にとても興味を持った。

ラジオ基礎英語の影響で中1の時の英語の成績はとてもよかった。NHK講座の威力を感じた。

今から思えばよくぞこんな時からと思うのだが、中2になる前に何かもう1言語、NHK講座をやってみようと思った。散々迷ったが、文字に魅力を感じたテレビ『アンニョンハシムニカ ハングル講座』を選ぶ。これがきっかけで多言語学習に関心をもつようになった。もちろん中学生が聞いて分かるのは基礎英語という番組だったからこそであり、大人を対象とした他の言語の番組が分かるはずはない。でもハングル文字はこのころには読めるようになっていた。そしてこのことは別の意味で人生の方向を決めるきっかけにもなったのだけれど。

英語を音読する時は英語っぽく読んでいた。中3で通った少人数クラスの個人塾では英文の本文を読む係としていつも当てられていた。高校の英語の授業で出席番号順に1文ずつ読むという場面があった。どこのクラスにもひとりくらいいる「空気を読まない」生徒だった。

高1の現代社会の授業で日本語タミル語起源説を知る。驚いた。そして言語学に興味を持った。もちろん日本語タミル語起源説は後にでたらめな議論だったと気づくのだが。

高2の終わりの文理選択で文系を選び、次第に英語を大学で専攻することを目標にするようになった。

高3になって英検2級に合格。受験勉強では「即戦ゼミ3」を1問5秒で解けることを目指した。英単語の書きなぐりで1週間に1本ボールペンを使ったこともあった。

進学希望は外国語学部のあるところに絞っていた。どういうわけか英語を専攻するための大学として文学部英文科という選択肢が全く念頭になかった。これも運命の分かれ道だったのかも。今でも英米文学にはほとんど関心がない。

次第に第一志望に固まっていった京都産業大学オープンキャンパスに2回も参加するくらいにまで気に入ってしまった。英語を学ぶことができる学科として、外国語学英米語学科と外国語学言語学言語学専修英米語専攻の両方が選べた。英語以外のいろんな語学を学ぶことができる魅力は捨てがたく、後者を選んだ。

大学に入学した頃には既にそこそこ聞き取りの力はついていたと思う。クラスメイトがネイティブ教員の話す英語についていけていない場面によく遭遇したが、自分はさほど苦労しなかったように思う。

大学1年の時、自分よりも発音が上手い学生が数名いた。もっと上手くなりたいと思った。アルクヒアリングマラソンをひたすら頑張った。ネイティブの先生の授業の受講時間も含めると1年間に1000時間のヒアリング時間は確保できていたと思う。最初の3ヶ月で本当に「耳が開いた」。シャドーイングにもかなり慣れた。

大学2年。主に発音やリスニングを学習する英米語総合基本学習II Fという科目があり、この科目には少人数の特別クラスがあった。どうしてもこのクラスに入りたかった。無事に選ばれた。英語音声学の基本に基づいた内容を少人数クラスで集中的に学べたこと。自分よりも上手い学生がいた事。また、リズムとイントネーションは正しいのだけれど、発音がねちょねちょしている学生がいて、彼だけよく個別指導をうけていたが、その時に発音指導の方法をすぐ横で観察できたこと。全てがとてもラッキーな経験だった。

大学2年の夏に短期語学研修でニュージーランドへ1ヶ月。当時は単位認定される短期語学研修はこのマセイ大学のプログラムしかなく、しかも相当競争率が高かった。大教室に集められ、その場で抽選が行われ、参加者が決められた。この時に抽選に外れていたら学部時代の語学留学経験をすることもなかっただろう。

ホームステイでは発信力が弱いことを自覚させられた。一番記憶に残っている場面は日本からおみやげに持っていったボンタンアメを渡した時。ホストファミリーはオブラートを剥がして食べようとした。その時「そのまま食べたらいいんですよ」と伝えることができなかった。

大学2年頃からは徐々に英語学習路線から脱線し始める。大学1年の時の第二外国語インドネシア語だったが、大学2年から言語学専修のカリキュラムの利点を生かし、韓国語とフランス語を始める。また英米語学科と異なる科目が徐々に増えてきて、英語の勉強はそっちのけで言語学の世界にどっぷりはまった。ニュージーランドで知ったマオリ語にも興味を持った。

たまたま1994年度入学生はとても熱心な学生が多かったらしい。それぞれの学生が競いあって複数の言語をとっていた。しかし専攻語や教職科目などとの重複でどうしても取れない時間があったのが残念。魅力的な言語が多かった。また一度にいろんな言語をやろうとして挫折したのも良い思い出。言語学のゼミ科目などで他の言語の文字をスラスラ書く仲間たちの姿がとてもかっこ良かった。縦書きのモンゴル文字とか右から左に書くアラビア文字ヘブライ文字をスラスラ書く仲間を尊敬した。いろいろな理由があるのだけれど、自分は古典ギリシャ語のクラスをとても頑張った。この授業を受けるのに毎週10時間程度の予習が必要だったが、じっくり辞書(単語帳)と文法説明、語形変化表を眺めて性・数・格に注意しながらきちんと正確に訳すことの重要性を覚えた。
ギリシャ語はまた勉強したい。でも老後の楽しみにとっておこう。

英語を使う仕事に就きたいと思っていた。大学何年の時か忘れたけど京都の通訳養成学校の体験レッスンに行った。どうも通訳の世界は自分には合わないと感じた。

大学3年。英米語学科のカリキュラムとは別路線に進んでいたが英米語学科の授業も自由にとることができた。やはり英語力を伸ばしたかった。サンスクリット語の授業も楽しかったが、英検準1級の勉強を優先してしまったことをちょっと後悔している。英米語学科のゼミにも所属し、音声学・音韻論と社会言語学の面白さを知った。

英語科教育法の授業では聞こえてきた音を発音記号で書く練習をひたすらやらされたが、この時の経験は今でもとても役に立っている。この科目では様々な教授法について書かれた英文教科書を購読したが、それを文法訳読式で読まされた。とても違和感をもった。

とあるクラスで1年間の留学から帰ってきた学年が1つ上の人がいた。流暢に話す英語を羨ましく思ったが、彼女はシャドーイングが全然できなかった。ヒアリングマラソンで鍛えた自分にはこれができた。練習方法としてのシャドーイングに興味を持った。

英検準1級には3回落ちた。もうこれ以上英語力は上がるまいと挫けそうになった。ある時、どうせ今度も駄目だろうと思って受けたらスラスラ解けた。そんなに簡単に英語力なんて伸びるものではない、でも諦めずにやっていたらいつか叶うということを身を持って経験した。TOEICは初めて受けて725点だった。学部在学中、最終的に785点まで上がった。自分のアイデンティティはそのころはやっぱり言語学専攻だったし、英語を専攻しない学生としては自慢できる点数だったのだろう。

必修だった卒論では英語の呼びかけ語を分析した。Hello, John. とか Thank you, Ted. のような会話文で、どういう時に相手の名前を入れるのかがとても気になった。NHK「やさしいビジネス英語」のテキスト半年分から、相手の名前が付加されている文をすべてチェックした。このテーマは修士論文のテーマでも継続することになり、修論では英語圏の映画と日本の映画を各6本、全てのセリフをチェックして名前の付加を日英比較した。今から思えば何かと不十分な点も多い研究方法ではあるが、英語の名前の付加の頻度は日本語の名前の付加の3.8倍にもなることを発見。そしてこの後もシャーロック・ホームズ作品での「ワトソン君」という名前の付加や、高校のオーラル教科書16冊に見られる名前の付加を分析するというテーマに広がっていく。教科書や文法書、辞書には記述されていないことを探る楽しさを知った。これも自分にとっては英語の勉強。

大学4年次に受けた教員採用試験は連戦連敗。しかしようやくある学校から内定通知を受けた。幼稚園から短大までを擁するとある総合学園。高校の募集広告が出ていたので応募したのだが、内定後の面談で中学校に行ってくれないかと言われた。

採用は取り消しになった。実は中学校の教員免許を持っていなかったのだ。道徳教育ただ1科目を受けていなかったという理由。教員になるなら中学校より高校と思っていたから道徳教育の科目を履修していなかった。運命のいたずらか。

大阪大学大学院に進学。学部の道徳教育の授業を受講して遅ればせながら中学校の免許もとった。M2に上がった頃からどうも現場を見てみたい欲求が湧いてきた。当時の指導教官からも現場を見てくることの重要性を教わったように思う。

博士後期課程へ進学せずに現場に出ることにした。採用試験をうけまくった。落ちまくった。そして7つめの採用試験。2年前に採用取り消しを受けた学校も何故か募集していて、受けてみたら採用された。中学校、掛かってこい!と思ったら高校の方で採用された。この2年間はなんだったのだろう。これもまた運命。

高校教員の1年目から毎週、ネイティブ教員とのティームティーチングの機会があった。毎週の授業設計、何かと大変だったけど勉強になった。校内英語スピーチコンテストの審査後、ネイティブ教員が講評を述べる場面で初めて逐次通訳をやった。やっぱり自分は通訳には向いていなかった。

高校教員の2年目。夏休みに1ヶ月のオーストラリア研修に引率する機会があった。引率教員も一般家庭にホームステイするが、この時、自分の語彙力の不足には嫌気がさした。聞き取りにもちょっと苦労した。

特任制度で3年間の期限付だった。継続雇用されるかと思ったら継続されないことが突然決まったので、慌てて別の学校の採用試験を受けた。最終的に複数の学校から内定をもらい、通勤時間2分の学校を選んで転居したが、家庭の事情で突然、通勤時間が片道2時間強になってしまった。この学校ではリメディアル英語教育の在り方を本気で考えた。高校2年生で英検4級の問題が全く解けない生徒を多数、目にした。いろんな学校の英語教育の現場は見ておく価値がある。

高校に勤務し始めた頃、NHKラジオ英会話の1年分の放送をまとめた Hopes, Love and Dreams in New York という本を見つけた。とても気に入った。まとまった分量の英語を話したり聴いたりする機会があると、その直前まで口慣らしと耳慣らしのため、お守りのように持ちあるいてひたすら聞いていた。しかしある時、この内容がとても簡単に思えるようになった。卒業。

高校教員を4年経験した後、ご縁があって大学教員となった。大学に勤めて最初の年、とある翻訳の企画に参加させてもらうことになった。紆余曲折があり、それから7年が経過した今年になってようやく出版されたが、この作業はとても苦労した。翻訳の難しさを知った。

いつの頃からか英英辞典や英語語義語源辞典を頻繁に引くようになった。OEDも時々開く。英字新聞は一時購読していたが、今はほとんど読まない。

TOEICは2年くらい前に935点をとったきり。TOEFLや英検1級は受けたことさえないが、時々問題集を眺めることはある。

あんまり大きな声では言えないんだけど、英語力をもっと上げたいという意欲は実はあまりない。なるべく衰えないようには気を付けているが。

英語も楽しいけど、英語よりももっと楽しいものを見つけた。その話はまた別の機会に。